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其の参百九 命拾いをした〈牛臥海岸〉のキスの巻…静岡県(沼津市)
哀

せっかく釣ったのに……と、今でも思い出だすことがある。だからといって、そのことを後悔してるというのではなく、わずか一匹の魚との〈一期一会〉が、いつまで経っても忘れられないのである。
 

 あれは、中学二年のときだった。駿河湾へ流れ出した〈狩野川〉の河口の南に位置するのが牛臥海岸で、そこに親戚の家があった。家といっても、いわゆる〈海の家〉というやつで、海水浴客を当て込んで夏場だけ建つのだ。
 名前は「カモメ壮」で、南条など都合五件の海の家があり、その隣が広大な用地を擁する「沼津の御用邸」で、さらに南側に〈島郷の浜〉が広がっていた。
 夏の海水浴といえば、学校の臨海学校など行事で〈大瀬〉や〈戸田〉にフェリーで行く以外は、もっぱらカモメ壮で過ごすのが夏の定番だった。
「オジちゃん、ボートを借りて釣りをしていい?」
 そう言いさえすれば、貸しボートの手漕ぎボートを用意してくれるので、あとは自分で砂浜を掘って餌の〈ゴカイ〉を見つけるだけだ。
「ほれ、そこにある竿を使っていいからな」
 見ると、リール付きのやつだった。
 子供のときから富士川や河口で釣りをしたが、リール付きの竿を使うのは初めてだった。しかし、沖へ出て確かめてみれば……それからどう使うかくらいは、わかるはずだ。
 やがて、沖合いに出て錨を沈めてからシゲシゲとリールを見た。
 陽光を浴びた銀色のリールは、まさに神々しく輝いてるようで、眩しいくらいだった。
「いったい糸は、どうやったら出るんだろう?」
 そこで、根元に巻かれている糸をほぐしながら二メートルほど出してみた。
 底近くまで届きさえすれば、とりあえず釣りにはなるのだが……問題はそれ以上になると竿よりも長くなって、ボートの上に立ち上がっても海面からハリが出ないのだ。
 いや、待てよ。リールに取り付けられているハンドルを回すと、スルスルと糸が巻き取れた。なるほど、これで一つは解決したわけだ。
 ほどいた分のミチイトは、こいつで巻き取れると……あとは、どうやって飛ばすかだけど。まぁ、いい。とりあえずこれでやってみよう。
 そこでハリに餌のゴカイを刺して、それを海中へ落としながら糸を解いていった。すると、いきなりアタリがあって竿先を小気味良く引き込んだのだ。
 慌ててリールを巻くと、勢いあまってテンビン型のオモリが竿先にぶつかり、さらにその下の仕掛けにキラキラと銀色に輝く二十センチほどの〈キス〉が掛かっていたのである。
「おお、こいつは凄ぇ!」
 まるでリールの仕掛けだからこそ、最初の一投でつれたような気がしていた。これだけの竿とリールなら、それこそイナダでもなんでも釣れるかもしれない。
 すばやくキスをハリからはずすと、手で海水を掻き上げてボートの底に水溜りをつくった。これで、バケツなどなくても釣った魚を生かしておける。
「ようし、釣るぞう!」

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 しかし、問題はまだあった。つまりリールで取り込むことはできても、仕掛けをと多くに飛ばす、その飛ばし方がわからないままなのだ。
 せっかくの道具がありながら、ただの〈ブッコミ〉で釣るだけではもったいない。しかし、いつまでたっても飛ばし方がわからなかったのだ。
 いったん浜へ戻って使い方を聞くという手もなくはないのだが、それだとあまりにも時間が経ちすぎているのだ。
 まして、「なんだね。中学生にもなってリールの使い方も知らないのか、しょうがねぇなぁ」と言われるのも癪だった。
 ええい、こうなれば〈一か八か〉だ。
 中学のある教師が、放課後投げ竿を振って、かなり遠くへオモリを飛ばしているのを見たことを思い出した。「もしかしたら竿を振り出した際に、何かの仕掛けで糸が自動的にはずれるようになっていて飛ぶのかもしれない」
 そこで、ボートの上に立ち上がって、エサを付け替えたハリが海面スレスレになるように竿を持ち、そして沖合いへ向かって思いきり竿を振り出したのだ。
 ブチッ!!
 次の瞬間、竿にかなりの手応えを残して、テンビンのオモリが弧を描くようにしてはるか彼方へと飛び去るのが見えた。そして、それは小さな水飛沫を上げて消え、竿の先に葉ヒラヒラと風になびくミチイトだけがヒラヒラと残っていた。
「こいつのせいだった、のか!」
 糸を巻いた部分の先にあった、針金のような金属製の〈輪〉が形を変えていたのだ。
「そうか、こいつがはずれるようになっていて……だから、魚が掛かったときにこいつを戻してあれば糸が出なくなって……そういうことだったのか?」
 すべては、あとの祭りでボートの中にはオモリもハリもないのだ。
 初めて手にしたリール付きの竿を手にした感激で、代わりの仕掛けすら用意してこなかった自分が悪い。
「まぁ、しょうがないい!」
 ともあれ、一匹は釣ったのだ。しかも、生まれて初めて二十センチあまりの大きなキスを。
 だが、なまじ一匹なだけに、素直に喜べる気分にもなれなかった。一匹だけテンプラにしてもらおうにも、海の家は地元の人間が花火を上げに着たりして、夕方もけっこう賑わうのだ。富士からやってきて、手間ばかり増やすのも申し訳ない。
「せっかくだけど、逃がしてやるとするか!」
 今なら、まだピンピンしてるし……そして、両手で海水ごとすくい上げながら「もう釣られるんじゃないぞ、キスよぅ!」
 そして竿をボートの中に仕舞い込むなり、海中へ〈着の身着のまま〉で頭から飛び込んでいた。
 
 それから三年後の高校二年の夏休みに、およそ二十日あまり、同じテニス部だった伊沢秀明と一緒にボート番のアルバイトをしたのだが……キスを逃がした場所を忘れることはない。もちろん同じ場所で、釣りをしようという気にもならなかったのだが。


●キス
繊細で美しい魚。「キスの最もおいしい食べ方は天ぷらだが、最もおいしい天種はキスではない。」と言われてかわいそうです。 昔は江戸前の代表的な魚の一つでしたが、最近は漁獲量が減って人々の関心から遠ざかりつつあります。美味しい魚なのにもったいない。
(出典=食材辞典 美味探求「鱚(キス)」より)
●牛臥海岸
狩野川河口の南側に位置する遠浅の海岸で、穏やかな海が広がっています。松原越しに富士山が望め、平成8年には「全国渚100選」に選定されました。すぐ近くには沼津御用邸記念公園があります。
●沼津御用邸記念公園
沼津御用邸は明治26(1893)年、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために造営されました。御用邸は皇室が主として保養のために用いる別邸で、いわばリゾート施設です。当時、このあたり一帯は楊原村と呼ばれる小さな漁村でしたが、気候が温暖なうえ、前面には駿河湾、背後には富士山という風光明美な地であることから別荘地として注目されはじめて、すでに大山巌(陸軍大臣)、川村純義(海軍大臣)、大木喬任(文部大臣)、西郷従道(陸、海軍大臣)の別荘が建てられていました。彼らはいずれも明治政府の高官です。川村純義伯爵が後に皇孫殿下(昭和天皇と秩父宮殿下)の養育係になっていることを考えると、この4人の存在が御用邸設置に大きく影響したものと思われます。加えて明治22(1889)年に東海道線が開通して、東京からの交通の便がよくなったことも理由の一つにあげられます。
(出典=静岡県沼津市HP「沼津御用邸記念公園」より)




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(青山漁業狂動組合・横浜支部 調理長※)
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  ※店主は、未だ調理師免許がないために〈料理長〉とは名乗れません。


其の参百九 命拾いをした〈牛臥海岸〉のキスの巻…静岡県(沼津市)
by mitsu-akiw | 2007-11-06 13:55 | 本編<釣魚食善>
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